すべてが同じ優先度で飛び込んでくる世界
発達障害のある人は「疲れやすい」と言われます。
ひとつには、日常で見る・聞く・感じるものすべてが同じ優先度で脳に入り、情報量に押しつぶされそうになるから。
もしくは、「普通」に見せるために人一歩努力が必要で、気になるものがあると過集中になってしまうから、などなど。
知識としては知っていても、当事者ではない私にはその実感を持ち得ませんでした。
しかしある日、「もしかしたら、こういう感覚なのだろうか」と腑に落ちた瞬間があったのです。
それは、私が昔から大苦手な「車の運転」をしている時でした。
全方位の危険に怯える、20分間の緊張
大学生で免許を取って以来、私にとって運転は常に不安と恐怖と隣り合わせです。
- どこから何が飛び出してくるかわからない
- 車線変更時、後ろの車が急加速するかもしれない
- 右折の瞬間、歩行者が急に方向を変えるかもしれない
- 脇の自転車がこちらに倒れてくるかもしれない
- 自分の車間距離の感覚すら信用できない
実際にはめったに起こらないこと、と頭ではわかっています。
でも、考え得るありとあらゆる危険が、頭の中を絶え間なく駆け巡ります。
目線は落ち着かず、呼吸は浅くなり、たった20分の運転で背中がバキバキに痛むほど疲弊します。
周りの人は「慣れだよ」「大丈夫」と笑いますが、何年経っても不安が和らぐことはありませんでした。
「情報処理のフィルターが機能しない」という共通点
ある日の運転中、ふと気づいたのです。
「私が運転中に感じているこの過剰な緊張感こそが、発達障害のある人が日常で感じている世界に近いのではないか」と。
本来、脳は「今必要な情報」だけを選び取り、それ以外を背景として処理するフィルター機能を持っています。
日常生活において、私は無意識にそのフィルターを活用しているんです。
ですが、運転中になると、それがうまくできません。
前の車も、後ろの車も、歩行者も、標識も、ミラーの景色も、まぶしく差し込んでくる西日も。
すべてが「今すぐ処理すべき危険」として、同じ重さで同時に押し寄せてきます。
運転中であっても多くの人は、無意識に行っているはずの「情報の取捨選択」を、私は意識的に、莫大なエネルギーを使って処理しなければなりません。
だから、たった20分で体もメンタルも限界が来るし、それ以上の距離は運転しないようにしています。
私にとっての「車線変更」や「わき道からの合流」の不安・恐怖が、発達障害のある子どもたちにとっての「雑談」や「買い物」や「会議」なのだとしたら——。
その疲労感は想像を絶するものがあります。
「大丈夫だよ」だけで片付けないために
私は発達障害の当事者ではないため、この運転時感覚が本当に正しいのかはわかりません。
それでも「自分の意志ではコントロールできない脳の使いにくさ」が存在することを、身をもって実感しました。
私の運転に対して、周囲が「大丈夫だって」とかけてくれる言葉は、「普通にすればいいだけだよ」「やればできるって」という意味です。
でも、その「普通」ができないんです。
「落ち着けばいい」「慣れればいい」が、どうしてもできない人にとって、この言葉は残酷に響くこともあったりします。

大げさに思われているかもしれない、言ってもきっとわかってもらえない。
それなら、もう相談するのをやめよう。
そうなってしまわないために。
お互いに悪意があるわけではないので、難しいところではありますが、「大丈夫だよ」と励ましたくなった時には、その言葉をかける前に、その背景にある目に見えない疲れがどこからくるのか、それを具体的に聞き出して上げるといいかもしれません。
解決しない不安かもしれませんが、聞いてくれる人がいる、わかろうとしてくれる人がいる。
それだけで、また、明日もがんばろう、と思えるはずです。


